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| 大谷獅子踊り | ||
大川渡は、1,200 年前の和銅年間、谷地興屋は 400年前の永正年間開村で、その誕生時期は異なるものの、すぐ隣の集落だったことから仲睦まじく共有し歩んできました。獅子御頭は、大正4年まで大川渡、白山神社に保存してありましたが、その年火災にあって現在の大地神社に保存されました。 大谷獅子踊は、鹿踊りの一つで、鹿と人との心のふれあいから生まれた民俗芸能であり、人々の心からなる共同を示しており、共同で悪魔や悪霊、外からの敵を防いだことを表す勇壮な獅子踊りとして受け継がれてきました。年月の流れとともに五穀豊穰を願い、悪虫、悪病を払い両集落の幸せを願う踊りとして保存されております。踊りの起源は、白山神社の火災のために記録等が失われ、いつ頃から伝わったかは不明である。大地神社の一番古い記録によれば文化2年(1805)に奉納しているので、それ以前からあったものと推定されます。毎年奉納するものでもなく、若者の強烈なる意思と結束がなければ長老から許可がおりません。それは、一度獅子頭が出されると絶対途中で止めるとか、失敗は許されない、きついご法度があるからです。師匠の指導のもと2ケ月余りの厳しい練習を行い、8月7日大地神社で古式ゆかしい獅子頭に精入れの式を行い8月15日の例祭奉納を中心に3日間村から村へと五穀豊穰を祈りながら踊り続けます。 |
| 両所神社御獅子舞 −昭和47年 市指定無形民俗文化財− | ||
古来よりしばしば大火の災禍にあって古い記録は全く焼失しており、御獅子舞の由来についても文献によることができないが、口碑によれば大凡次のようなことがある。 当産土両所神社は、往古添川の集落下に鎮座せられていたが、天和元年、現在地両所山に奉遷。貞享3年地域民あげてこの遷宮の大祭典を執行。古くから伝承しきった両所宮御獅子舞を氏子の壮者等競って奉納。盛大に奉仕せられしものの如くであり、当社旧例祭日陰暦8月朔日、陽暦9月8日(後9月1日に改む)、現在8月18日の御例祭には、毎年かかすことなく氏子青年あげて伝習奉納、今日に至っているが、伝承の起因については、不明である。 両所神社の創建は、約700年前、鎌倉の執権最明寺時頼その武将梅津中将を当国の探題として遣わされ、かつ、羽黒山の長吏職を兼ねて添川に居城(一名上旬館ともいう。)城内鎮護の神として大物忌大神月山大神の二柱を勧請合して両所神社としてそう敬せられたという。その後天正年間の兵乱に梅津家居城を去るとともに当社の神事も永く中絶せられたが、寛永5年戊辰12月17日社殿を再建して当地域の産土神として仰ぎ、その後天和元年御遷宮のこと等もあって明治9年3月2日郷社に列せられ、昭和5年氏子そう敬者の寄進によって社殿の大増改築をなし現在に至っている。 |
| 添川三役保存会 | ||
三役とは奴のことで、江戸時代の武家の奴僕、溌びん、鎌髭の姿で主人(殿様)の槍、長柄、挾箱を持って大名行列のと供先を勤めたと言われている。 庄内地方の奴振りの由来は、現在の鶴岡公園の旧城跡地に明治10年に新たにご神殿を造営されたのを記念に、酒井公奉納の衣装や道具によって始められたと言われている。両所神社の奴振りは、その創立記録によれば、大正13年荘内神社例大祭行列の奴振りの振付をやっていた渡部力治師匠の教えを受けた、鈴木玄作(現在の鈴木勝右衛門)を組頭として数名が荘内神社の例大祭に雇手伝いとして参加しました。それ以後両所神社の例大祭に、地域の発展と氏子民の安全を祈願して奉納されたのが最初と言われている。終戦後一時中断された時期もありましたが、昭和23年に上林安大朗組頭を先頭に復活しましたが、袢纏や槍の補充に苦労した。その後、いろいろ困難もありましたが、昭和55年8月15日、両所神社々殿造営50周年記念行事として集落の中に御神輿の渡行の折、奴振りの初穂料を基金とし、なお、氏子から篤志寄付金、集落会計、神社会計より助成を受けて現在の衣装が整備されました。昭和55年9月に三役の保存会設立の要望があり、翌年1月より7月まで数回の発起人会を開いて同年8月に三役保存会々則を制定し、現在に至っています。 |
| 東堀越獅子踊り | ||
獅子大神の起源は、新山大権創立、源頼朝公の家臣下野国の住人安達藤九郎盛長、手向の黄金堂建立のおり、同じ年に建立して実に驚くべき黄金堂以上の建造物であると伝えられている。その遷宮式を建久5年甲寅年7月18日執行。新山大権現は天地開闢の時にあたり、大神に坐々ければこれにおいて獅子踊、行事はその昔より伝わっておるとのこと。盛長遷宮式執行するにも人々の諸災悪病退散、五穀の悪虫退散ため、舞子5人、太刀使い1人、棒使い2人、槍持2人、簓摺り2人、歌人7人、第2舞子5人、第3舞子5人、計29人の大団獅子舞を添えて大遷宮式執行せんという。これを信仰して霊験を被りおる人々は、毎年の獅子舞を悪魔払いと名付けてこころ踊らせて舞を待っているのであります。 今もって当神社例祭、新暦8月18日なるも7月初旬より毎年この獅子大神を中心に練習し、毎晩獅子大神の社地、押すな押すなの見物人、怪我のないのは神救いであると。8月13日幕付の日まで毎晩の大練習。8月18日は修験職以下関係者獅子舞大団体の行列を造り修験職家(社家)より参進。獅子大神を巡ること3度、それより獅子頭を神前に飾り厳かに祭典を奉仕し、祭典終了後、獅子大神前にて第2、第3の舞子次からつぎへと神前にて一夜獅子踊りで夜を明かす。翌19日は、氏子の戸々において悪魔を払い、産土大神の恵み福をうける。8月20日獅子の御神霊還し、新山権現の古よりの祭、獅子行事終了として現在に伝えられる。 |
| 八色木獅子踊り | ||
起源については、判然としないが、今、残っている記録によれば、明治4年に初めて踊ったことになっているから、それ以前に始められたものと思われる。八色木の獅子は、他の獅子郷のものとは子弟関係がなく、全く独創されたものと伝えられている。その創始者は、唄が海藤四郎右衛門とされ、その唄に振付したのが斎藤仁助とされている。この二氏が幾霜星かをこの創作に没頭し、今日の八色木獅子たらしめたことを思うとき、感無量である。 なお、過去の奉納をみると明治4年、明治24年、明治43年、大正8年、昭和28年に踊っている。 |
| 豊栄獅子踊り | ||
藤島の無音獅子と余目の家根合獅子と兄弟獅子で養子か年雇の者が、当地に伝来したものと考察され、15カ年毎に踊ったという古老の語りがある。諏訪神社に掲額された獅子踊行列の絵図は、明治36年7月のもので、15年遡れば明治20年にも踊ったことになる。なお、15年遡れば明治5年となり、その年の7月、成田三吉の唄の本が発見されたことから、それ以前のものと推測される。また、明治43年に踊ったという写真があるが、その年は悪病が流行して住民の悩みを払うため、周期を待たずに踊ったもの伝えられている。若者達の組織で取締りが行なわれ、その後、赤心会を構成、会長が取締りを行ない大正8年8月奉納。昭和12年、昭和27年に奉納。昭和44年獅子踊保存会が結成され部落長が保存会長となる。 |
| 渡前獅子踊り | ||
獅子踊りの起源は、遠く室町時代に遡る。当時上流階級であった公卿たちの間に能が発達し、時を同じくして舞楽と田楽が流行した。獅子踊りは、その中の舞楽から派生したものと言われている。記録は乏しいが、文政10年(1827)、天保10年(1839)とその後14年間経た嘉永6年(1835)、更に10年後の文久3年(1863)などに、盛大に獅子踊りを行なった記録が「獅子踊諸雑用控帳」として残されている。 渡前の獅子踊りは、無表情で複雑な美しさはないが、これを冠る踊り手の上手さによって、さながら生きたもののようにその表情を変える。太鼓を叩きながら獅子頭を激しく振り立てて足を強く踏んで踊る様は、誠に勇壮極まりない。この足踏みは悪魔払いの反ばいであるという。踊りには、「大踊り」「橋掛り」「幕掛り」「女獅子掛り」の四つからなり、素人眼には単調な繰り返しのようにも見えるが、踊り毎にそれぞれ力の入れどころがあり、一種類の踊りをすますにも一時間余りを要するのである。 「獅子頭は宝徳からきた。」という伝説があり、その証拠に近郷を廻るとき最初に行くのが宝徳と定められている。 一方、須走から伝習したとも言われている。須走には文政3年の書類が残され、獅子唄も共通していることから、こちらの説が有力ともとれる。 |
| 古郡神楽(太神楽) −昭和49年 町指定無形民俗文化財− | ||
由来の詳細は不明であるが、いろいろな点からみて三百数十年の歴史をもつものと思われる。言い伝えによれば、藤島郷一帯は、水利の便が悪く毎年のように干害に悩まされ、農民の生活は苦しい限りであった。最上義光の臣、新関因幡守は何とかしてこの悲惨な境地から農民を助けようと決意し、この地方の地形をつぶさに調査し、現在の因幡堰開鑿の大工事を施工、池神社に21日間おこもりをして事業の完成を祈願したと言われている。それから幾多の苦難を乗り越え、ついに今日の美田をみるに至ったのである。堰が完成した際、神前に神楽を奉納し神のご加護に深く感謝の意を表したと言われている。古郡神楽は、決して一朝一夕にしてなったものでなく、初め獅子舞が行なわれ、ついで「剣の舞」それから「曲芸的なさまざまの曲目」が加わり現在のようなバラエティに富んだものに成長したものと考察される。 |
| 六所神社神楽 | ||
藤島城と平形館に近く上藤島に鎮座の六所神社は、古来、見満山満願寺六所権現と称えられてきた名社であるが、藤島城主、その他古来より崇敬のあった大社で神宝古記等多かったが、幾度か藤島城を中心とする戦乱、火災に遭遇し、その多くは欠逸してしまった。 記録文書により、主として獅子頭庭舞神事について述べると、建武中興時代の初期、平形館主九鬼長門守が獅子頭を直作して奉納された御頭様という獅子頭がある。他に御隠居様という古い獅子頭がある。いつの時代のものであるかは不明であるが、相当古いものである。 獅子頭の神事の起源は、不詳であるが慶長6年最上義光の将新関因幡守久正が藤島城主に任ぜられ、鶴岡城代を兼ねられたその頃、獅子頭庭舞神事のため、登城したのがその因縁で、以来引続き旧中川郷71個村に渉り、恒例の神事として廻村、庭舞として各村中、各戸の家内安全等の祈祷を行なってきたが、鎮火の御神徳を蒙り殊に火災に際しては、古来幾多の御神徳を顕し氏子の崇敬は篤かった。 |
| 長沼八幡神社神楽舞 | ||
古い記録もなく、由来についても文献によることが出来ないが、口碑によれば宝暦四年に余目の茗荷瀬(みょうがせ)町内会から伝わってきたとされている。 獅子頭作者大沼幸七氏、大沼多七氏より奉納。明治20年に富樫治左ヱ門より米一斗分の重さの獅子頭が寄贈された。 当初は、地主農家へ奉公に出ていた人達の娯楽の一つとして、獅子舞・女舞・神楽舞・笛・太鼓などが受け継がれていたようである。年と共に諸災害、悪虫・悪病を払い、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛などを願い、8月14日神殿において厳かに精入れが行われるようになった。昭和40年頃までは、三川町の土口まで行き、8月17日までの4日間も舞いが行われていた。 これまでは長沼地区旧3区の住民(現在の宮東、下通)により伝えられてきたが、時代と共に後継者が少なくなり、一時期は笛と女舞が途絶え、2日間に縮小されて現在に至っている。 昭和53年の開発350年祭に氏子の協力を得て獅子頭が新調された(現在3頭)。若い後継者が入り、笛と女舞も復活し、にぎやかに祭典に花を添えている。 十数年前に保存振興会が発足。氏子よりいただいた会費を後継者育成資金として活用し、全町内会から後継者を育てて後世に伝えるため活動している。 |
| 東栄小学校の獅子踊り |
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「1998年新港ミュニティ児童芸術節」に参加 台湾で平成10年6月27日(土)〜7月3日(金)に開催された「1998年新港ミュニティ児童芸術節」に、日本の児童芸術団体の代表として東栄小学校の6年生30名が参加し、自慢の獅子踊りを披露しました。 学校教育でのねらい
経 過
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| 渡前小学校の子ども獅子踊り |
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「獅子踊り」との出会い −教師の願い− 「獅子の郷、渡前」。私が毎日通勤する道路沿いにこんな看板が立っている。藤島地域は各地区に今なお獅子踊りが残る「獅子の郷」である。他の地区に伝わる獅子踊りは目にしたことがあるが、渡前地区の獅子踊りは見たことがない。「渡前の獅子踊りってどんな踊りなんだろう…」毎日その看板を眺めながらそんなことを思っていた。 学校教育でのねらい
経 過
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