酒井家庄内入部400年記念事業実行委員会 歴史に見る黒川能のむかしむかし 黒川能と王祇祭  櫛引地域の黒川地区に伝わり、国の重要無形民俗文化財に指定されている黒川能。その歴史は古く、遅くとも室町時代後期には始まっていたとされています。以来、500年以上にわたって、春日神社の氏子たちによって大切に受け継がれ、現在も年4回の例祭で奉納されています。  中でも、厳寒の2月1日・2日に行われる「王祇祭」は最も重要なお祭り。1日早朝に神霊が宿る王祇様を当屋に迎え、夕方から幼児の大地踏で奉納が始まり、式三番、能五番、狂言四番と、夜を徹して演じられます。 酒井家と黒川能  元禄2年(1689)10月、 4代藩主酒井忠真公から、城中で黒川能を観覧したいという打診がありました。しかし、当時は村の困窮で黒川能自体が衰退している時代。能役者は両座合わせて約60人、演じられる能も十番ほど、狂言を演じられる役者はおらず、登城の際の着衣も満足に用意できませんでした。  そのような実情を藩に伝え、 能の上演に掛かる費用等の貸与を願い出ると、藩はそれを了承。翌元禄3年(1690)1月25日に、忠真公の御前での黒川能上演が実現します。式三番と能七番を演じ、狂言は鶴岡の町人が行いました。その際、忠真公からは、米百俵と能道具などが褒美として与えられています。  以降も元治2年(1865) までに10回ほど城中で上演しており、その都度、能道具等の褒美が与えられました。その中には、現在、県の重要文化財に指定されている物もあり、今も舞台で使われています。 黒川能の再興  城中での上演は、黒川能が広く知られるきっかけとなりました。また、黒川の人々にとって大きな励ましとなり、黒川能の再興につながっていきます。  一時は勢いを失った黒川能ですが、酒井家の支援や黒川の人 々の努力が重なって、現在では、三百番の能と、二百番の狂言を演じることができます。  時代に合わせ少しずつ形を変えながら脈々と受け継がれてきた黒川能には、神事としての厳格さと精神、伝統が息づいています。 ▲県指定重要文化財  「狩衣(萌黄地桐に隅入角に鳳凰の丸模様)」(春日神社所有) ▲「蝋燭能」の様子。ほのかな光の中での能は、500年前に先人が見たであろう光景を思わせてくれる◎YouTubeはこちら→ (写真:三浦一喜/NPOやまいろ) ■問合せ 本所政策企画課☎35‐1184 ■監 修 黒川能の里 王祇会館 ■出 典 『櫛引町史 黒川能史編』、『黒川能狂言百番』、黒川能保存会ホームページ 等 鶴ヶ岡城の「馬出」と思われる遺構が見つかりました。 ■問合せ 社会教育課(櫛引庁舎)☎57‐4868 昨年末、山形地方裁判所鶴岡支部西側(市内馬場町5‐23付近)の道路整備工事現場から、約30個の金峯石(花こう岩類)が出土しました。  これは鶴ヶ岡城二の丸大手門前の馬出に使われていた石積みの遺構であると推定されています。 「馬出」とは、城の出入口前に敵を引き付け、城兵との挟み打ちを狙う防御拠点のことで、明治9年に鶴ヶ岡城が取り壊されてからは、絵図でしかその存在を知ることができませんでした。  酒井家庄内入部400年の節目に当たって城の遺構が見つかったことで、より一層の機運の高まりが期待されます。今後は出土した石の活用について検討していきます。 末の鶴ヶ岡城絵図(※1) ▲出土した金峯石 ▲大手門前想像図(※2) ※1出典『城下町鶴岡』 /※2出典『図録 庄内の歴史と文化』:春水という画工が古写真を元に描いたもので、必ずしも正確とは言えません。 広報つるおか 令和4年2月号 【 令和4年2月1日発行 】 環境に配慮し古紙再生紙と植物油インキを使用しています