酒井家庄内入部400年記念事業実行委員会 歴史に見る因幡堰のむかしむかし 因幡堰の開さく 日本有数の穀倉地帯である庄内平野。その中央部に位置する因幡堰(いなばぜき)は、藤島・羽黒・櫛引地域にまたがる用水路で、長く稲作が営まれてきた地域の水田を潤す重要な役割を担っています。 因幡堰の開さくの歴史は慶長12年(1607)まで遡ります。この地域は水利が悪く、しばしば干ばつの被害に悩まされていました。 最上義光(よしあき)の家臣で藤島城主だった新(にい)関(ぜき)因幡守(いなばのかみ)は、水不足に苦しむ農民たちを見かね、義光の許可を得て赤川から取水する新しい堰(せき)の開さくに着手しました。しかし元和8年(1622)に、最上氏の改易で因幡守が庄内を去ることになり、開さく工事は中止を余儀なくされます。 酒井忠真公による工事再開 酒井家入部以降も長らく中止されていた開さく工事は、農民たちの藩への働き掛けなどもあり、元禄2年(1689)、第4代藩主酒井忠真(ただざね)公により再開され、待望の通水が実現しましたが、決して十分な水量とは言えませんでした。 そのような中、宝永2年(1705)に、庄内地方を大干ばつが襲います。参勤交代のために江戸に向かう途中、水不足にあえぐ農民たちを見た忠真公は、堰を直ちに大改修するように指示。翌年には、それまでの幅三尺から六尺(約1・8m)に広げられた大きな堰が完成しました。 因幡堰の完成 その後も何度か補修工事が行われ、享保12年(1727)には幅2間(約3・6m)に拡幅。宝暦2年(1752)から4年にわたって行われた大改修工事では、工事を指揮した田(た)沢(ざわ)勘七(かんしち)が「人柱になってこの堰を永遠に守る」と言って自刃したと伝えられています。この堰が農民たちにとっていかに重要なものだったかがうかがえます。 完成した堰は、「新関因幡守」の名をとって「因幡堰」と命名され、現在も、地域に豊富な水を供給する大切な用水路としてその役割を果たしています。 開さく当時から残る石積水路 (東昌寺付近)  藤島川を横断する水路橋(古郡地内) ■出 典  『藤島町史 上巻』、『農業農村工学会学会誌第77巻第10号』 ■協 力 因幡堰土地改良区、菅原孫一氏 酒井家庄内入部400年記念事業の公式ロゴマークが決定しました   全国から3,700人を超える多くの方に参加いただいた一般投票で、最多の1,413票を獲得した左記デザインを公式ロゴマークとして決定しました。   投票期間:2月18日~3月18日の1か月間   投票総数:3,791票  制 作 者:天野穂積 氏 (静岡県静岡市)   投票に参加いただいた方の中から、抽選で100人の方に記念品をお送りいたします。 ※当選者の発表は記念品の発送をもって代えさせていただきます(5月下旬発送予定)。 ■問合せ 本所政策企画課 25‐2111内線526 編集・発行/鶴岡市総務部総務課 鶴岡市役所 本所 〒997‐8601 山形県鶴岡市馬場町9‐25 ☎0235‐25‐2111  FAX 0235‐24‐9071  (メールアドレス)tsuruoka@city.tsuruoka.lg.jp (窓口受付時間)月曜~金曜日(祝日・年末年始除く) 午前8時30分~午後5時15分 藤島庁舎 〒999‐7696 市内藤島字笹花25 ☎64‐2111 羽黒庁舎 〒997‐0192 市内羽黒町荒川字前田元89 ☎62‐2111 櫛引庁舎 〒997‐0346 市内上山添字文栄100 ☎57‐2111 朝日庁舎 〒997‐0492 市内下名川字落合1 ☎53‐2111 温海庁舎 〒999‐7205 市内温海戊577‐1 ☎43‐2111 《人口と世帯》(令和3年3月31日現在)   住民基本台帳人口合計:123,146人 (男:58,890人、女:64,256人)   世帯数:49,182世帯 広報つるおか 令和3年5月号 【 令和3年5月1日発行 】 環境に配慮し古紙再生紙と植物油インキを使用しています