酒井家庄内入部400年記念事業実行委員会 歴史に見る六十里越街道のむかしむかし ●問合せ本所政策企画課 ?35‐1184 出羽の古道 庄内地方と内陸を結ぶ「六十里越街道」は、約1、200年前に開かれたと伝えられています。 山岳信仰が盛んだった室町時代〜江戸時代には、湯殿山への「お山詣り」の道として、東北や関東などから訪れる行者(参詣者)でにぎわいました。 また、庶民の生活にも欠かせない道で、庄内からは魚介類やろうそくが、内陸からは紅花や真綿、豆や葉タバコ等が背負って運ばれていました。 10代忠器の参勤交代 庄内藩主が参勤交代を行う際、通常は現在の三川橋辺りに舟を数珠つなぎにした舟橋を作って赤川を渡り、藤島から清川(庄内町)に出て、新庄まで舟で最上川を上り、羽州街道・奥州街道を通って江戸に向かっていました。 ところが、天保6年(1835)旧暦3月は、大雪のため、清川付近の残雪が多く雪崩の危険があったことから、急きょ六十里越街道を通ることになったのです。 街道中にある大網村は大日坊が本陣となり、10代当主酒井忠器(ただかた)の宿泊所とされました。宿泊が3月11日で、通達が8日の夜だったため、大至急で準備をしなければならず、村は大騒ぎだったといいます。 藩主一行は宿泊翌日の早朝に大網村を出発。本道寺(西川町)までの約8里を、村人総出で送り届けました。 写真 街道のシンボルであり、千手観音のように枝を広げる「千手ブナ」 独鈷の清水とねじれ杉 ブナに囲まれた、田麦俣から湯殿山までの道中に「独鈷(どっこ)清水」という、この付近では唯一の湧き水があります。その昔、喉が渇いて困った弘法大師・空海が、「独鈷(銅や鉄でできた両端のとがった短い仏具)」でこの場所の地面を掘ったところ、清水が湧き出したことから、独鈷清水と呼ばれるようになりました。 そして、その脇には「独鈷のねじれ杉」と呼ばれる杉の木があります。喉の渇きを癒やした空海が、杉の木の葉で手を拭いたところ葉先がねじれ、それからはいつもねじれた葉が出てくるようになったことが名称の由来です。その杉の木の横には、13代・15代当主酒井忠篤(ただずみ)書の「湯殿山独鈷杉永代保存之碑」が大正2年に建立されました。  写真 独鈷のねじれ杉 湯殿山独鈷杉永代保存之碑(酒井忠篤書) そして現在 明治後期以降新しい道が開通し、表舞台から退いた六十里越街道。現在はトレッキングのコースとして、また観光地として県内外から多くの人が訪れています。 また、六十里越街道を愛する地元の有志が中心となり、来訪者が安全に歩けるように整備や道案内をしながら、その歴史を後世につなぐ活動を行っています。 ■出典 『朝日村史 上・下巻』、『六十里越街道にかかわる歴史と文化』、『山形県朝日村 六十里越街道』 酒井家庄内入部400年記念事業 小冊子『庄内の歴史ハンドブック』を制作しました 小・中学生向けに庄内の歴史や文化をまとめた小冊子を制作しました。市内高校生も編集に参加し、酒井家が庄内に入部する前の時代から幕末・明治時代までを中心に、図版を多く取り入れた内容となっています。 1月には、庄内地方の小・中学校に、授業や地域学習などで活用できるようデジタル版を配信しました。 また、今年度中に紙版も発行し、市内全ての小学5年生〜中学3年生に配布するほか、市内の各コミュニティセンターや庄内地方の図書館等にも設置する予定です。 デジタル版は、酒井家庄内入部400年記念事業の公式サイトで公開しています。世代を問わず学べる1冊となっていますので、ぜひご覧ください。 ●問合せ 社会教育課(櫛引庁舎)?57‐4868 広報つるおか 令和5年2月号 No.299 環境に配慮し古紙再生紙と植物油インキを使用しています