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旧町名とその由来3

更新日:2015年1月14日

近郊の村

大宝寺だいほうじ

 中世には、今の鶴岡を大宝寺と称していた。最上氏の時代に鶴ケ岡つるがおかと改められたものである。酒田の海岸に大きな亀が打ち上げられたのをめでたいとして、酒田の東禅寺城を亀ヶ崎城と改め、それに対して大宝寺城を鶴ケ岡城と改称した。江戸時代には下大宝寺の区域が大宝寺村といわれ、京田組の大庄屋の役宅が置かれた。東新屋敷は俗に新徴屋敷といい、幕末に庄内藩に預けられた浪士組・新徴組しんちょうぐみを住まわせるために明治3年に町割されたが、次第に人家がなくなり、同9年に町名も消滅した。明治22年町村制が施行された時、道形村・文下ほうだし村・茅原村・新斎部村と合併して大宝寺村となったが、大正9年に鶴岡町に編入された。現在は、町名として残っている。

京田きょうでん

 鶴岡城下の北に位置し、京田のつく10集落がほぼ一直線に並んでいる。地名については(1)羽黒山の経田説、(2)武藤氏時代の家臣への給田説、(3)京都へ運ぶ米を作っていた所という説がある。江戸時代には羽黒山の領地1,800石余りの内半分が平京田・北京田・小京田にあり、それに限って経田と書いていた。明治22年に平京田(村)・西京田(村)・北京田(村)・中野京田(村)・覚岸寺(村)・林崎(村)・荒井京田(村)・高田(明治9年高田麦村を改称)・安丹(同年千安村と丹波興屋村が合併)・福田(同年論田村と阿部興屋村が合併)・豊田(同年野興屋村と漆島村が合併)の11ヶ村が合併して京田村となったが、昭和30年に鶴岡市に編入された。

道形どうがた

 江戸時代始めに開発された村で、当時の資料には「堂形新田村」と記されている。明治22年の町村制の施行により道形村は、大宝寺村大字道形となった。現在は町名として残っている。

茅原ちわら

 鶴岡城下の北にある農村で茅原村といった。村ができる前は、かやの繁茂する原野であったことから茅原村と名付けられたと見られる。昔は茅(萱)は屋根葺きの材料として欠かせないものであった。明治22年の町村制施行により大宝寺村に編入、大正9年に鶴岡町の大字となる。

新形にいがた

 鶴岡城下の北に接する農村で新形村といった。最上氏時代までは今の若葉町あたりに舞台村と一ヶ所にあったが、酒井氏の町割により分離し現在地に移住させられた。明治22年の町村制施行により大宝寺村に編入、大正9年鶴岡町の大字となる。現在は町名として残っている。

新斎部しんさいぶ

 鶴岡城下の西に接し、江戸時代には新町村・齋藤興屋村・大部京田だいぶきょうでん村という農村と万年橋という御給人町があった。明治9年にこれらを合併し、三ケ村の村名の一字を取って新斎部と名付けた。尚万年橋は江戸時代初め頃、万年氏という代官の屋敷があって自費で橋を架けて城に通っていたのでこの名がついた。明治22年の町村制施行により大宝寺村に編入され、大正9年に鶴岡町の大字となった。

柳田やなぎだ

 鶴岡城下に接する農村で柳田村といった。赤川の旧流路に当たり、付近一帯に川柳が繁茂していたのでこの名がついたともいわれている。明治22年町村制施行のとき稲生村に入り、更に大正7年に鶴岡町の一部となった。

しま

 鶴岡城下の南及び東に接する農村で島村と称し、島組大庄屋の居宅があった。酒井氏の町割りの際に宅地化し、十三軒町・檜物町などが町割された。村名の由来については、昔この辺一帯を赤川が乱流し所々に島が出来たことによるという説と、最上氏の旧臣の城生志摩じょうしまが開いた村とする説がある。明治22年の町村制により稲生村に合併、大正7年鶴岡町の大字となる。

日枝ひえ

 鶴岡城下の南に接し、江戸時代は小真木こまぎ村・海老島えびじま村と言っていた。小真木は駒木・小牧とも書き、牧場があったことに由来するともいう。また海老島は、この辺を流れる内川の形が腰を曲げた海老に似ているので名付けられたともいう。明治9年に両村が合併して日枝村となる。この村名は村海老島に鎮座する上山王社が明治2年に日枝神社と改称、この名にちなんだものと思われる。稲生村、次いで鶴岡町に合併して各々の大字となる。

外内島とのじま

 鶴岡城下から南へ向かう六十里越ろくじゅうりごえ街道添いの集落で外内島村と称し「殿内島」「殿島」「外の島」とも書いた。この辺は中世に赤川が乱流していた所で、それを示す「島」のつく地名が多いが、外内島もそのひとつである。その語源は、赤川の旧称である外川と内川の間にできた島という説もあるが、戸内大夫とのうちだゆう(神主)との関連も考えられる。明治9年に上外内島村・下外内島村・信州村が合併して外内島村となる。信州村は信濃国からの移住者が開いた村であったが亡村となった。明治22年の町村制施行により斎村の大字となり、更に昭和30年に鶴岡市に編入された。

遠賀原おがわら

 鶴岡城下の南に接する農村で、江戸時代には藤原ふじわら村と稲荷いなり村と称していた。藤原村は藤原氏の一族の落人が開いたとも伝わる。稲荷村は、鎮守遠賀神社の古名・稲荷神社に由来する。明治9年に両村が合併して遠賀原村となった。遠賀神社と藤原の原をとって名付けたものという。

八ツ興屋やつごや

 鶴岡城下の東南の集落。その昔、この辺りを赤川が流れていた頃、川岸に鮭を獲るための八軒の小屋が並んでいたが、新田開発が進められ、興屋の字を宛てるようになったと伝えられている。明治22年斎村に編入、昭和30年に鶴岡市の大字となる。

苗津なえづ

 鶴岡城下の東南に接する農村で苗津村と称した。村名については、苗州なえす説、内津ないつ説、アイヌ語のnay-tu説がある。アイヌ語は二本の川がある所という意味であるが、この地も苗津川と赤川の合流点近くに位置している。明治22年に斎村の大字、昭和30年に鶴岡市の大字となる。

伊勢横内いせよこうち

 鶴岡城下の東南、赤川添いに位置する農村で伊勢横内村と称した。村名は、伊勢の皇大神宮こうたいじんぐう(伊勢神宮)を勧請したことに由来するが、単に「横内」ともいう。明治22年に斎村に編入、昭和30年に鶴岡市の大字となる。

我老林がろうばやし

 赤川の西岸に位置する農村で我老林村と称した。村名については、伽藍がらん林に由来するという説もある。明治22年に斎村へ、昭和30年に鶴岡市へ各々統合された。

斎藤川原さいとうがわら

 赤川の西岸に位置する農村。村名は、その昔赤川の流路に当たっていたことを示す。稲荷村の社人斎藤氏が開発したという伝承もある。明治22年に斎村に編入、昭和30年より鶴岡市の大字となる。

勝福寺しょうふくじ

 赤川の西岸に位置する農村。勝福寺村と称したが、正福寺・小福寺とも書き、福平村・川上村ともいったという。村名は美田地帯を示す勝福地から転化したという説もある。泉山神社の境内には、鶴岡の古称「大泉(荘)おおいずみのしょう」の語源といわれる泉の跡が残っている。

参考にした史料
鶴岡つるがおか雑談ぞうだん」・「大泉たいせん紀年」・「大泉掌故」・「筆濃余理ふでのあまり」・『鶴岡市史』・『鶴岡の小路』・『荘内史要覧』・『角川日本地名大辞典』・『山形県の地名―日本歴史地名大系6一』など

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