平和を願い 絵を描き続ける 人(ひと)の情景(じょうけい) scene 08 三浦恒祺 Tsuneki Miura 絵を描くことが小学生の頃から好きだったと語る洋画家の三浦恒祺さん。5歳で広島に移り住み、1945年8月6日の朝に投下された原爆の被害に遭ったのは15歳のときでした。 「私は広陵中学校(現在の広陵高校)の2年生で、当日は事務用品などを運ぶ勤労奉仕をしていました。そのときは爆心地から約4q離れた辺りでトラックに乗っていたんですね。急にピカッと閃光が放たれたかと思うと、大きな爆発音と爆風が辺りを包みました。その瞬間は何が起きたのか全く分かりませんでした。乗っていたトラックは爆心地の近くを通ってきたので、もう10分出発が遅かったら、恐らく生きていなかった」。  訳も分からないまま荷物を下ろす作業を終わらせ、午後になり元来た道をトラックで戻ると、朝に通ったときとは変わり果てた光景を目の当たりにします。爆心地の近くになると道路も塞がれ、歩いて学校に向かうことになり、その途中の出来事がずっと頭から離れないと言います。 「全く動かない人もいる中で、衣服と皮膚が混ざり合うようにやけどををしている人が『水をくれませんか』と手を前に出されるんです。私は水筒を持っていないため『すみません、持っていません』とお断りをしながら通り抜けるしかなかった。あのとき一滴でも水をあげることができていたら、どんなに喜んだことだろうと、今でも悔やまれます」。  終戦とともに、両親のふるさとである鶴岡に移住。高校を卒業し銀行で働きながら油絵を始めます。 「最初は、専ら庄内の風景が題材でした。その中で私の被爆体験を絵にしたいという思いはあったのですが、あまりにもテーマが大きく、なかなか描くことができませんでした」。  抽象なら描けるだろうと、原爆投下から16年たった1961年に1作目に取り組み完成させましたが、2作目を描くまではそれから更に34年かかりました。終戦からちょうど50年たった1995年のことです。 「2作目を描くきっかけとなったのが、被爆者健康手帳を取得し、被爆者の会に入会したことです。会には私より大変な体験をされた方もいて、いろんな話を聞いて、刺激をもらったんですね。それで私に描ける絵を描こうという気持ちになりました」。   今では原爆作品は46作品あり、内3点は寄贈し、43作品が本人の元に。 「手元にある『原爆の形象』作品全てを一挙に展示したのは今回が初めてで、私自身も見られて良かった。これが幾らかでも平和を発信することにつながればと思います」。  戦争のない平和な世界を願いながら、三浦さんは今日も描き続けます。 ▲ 原爆の形象 bP  (1961年/広陵高校〈広島県〉蔵)   原爆を描いた最初の作品。原爆の恐ろしさが色からも伝わる。 ▲ 原爆の形象  46 ICAN. \  (2023年/本人蔵)   原爆の形象の最新作。色合いも明るくなり、平和を印象付ける。 ▲ 8月5日に致道博物館で行われたアーティストトーク。集まった参加者は、三浦さんの話に真剣に耳を傾けていました。三浦恒祺展は「庄内の憧憬」をテーマに展示替えをして、9月18日月曜日まで同館で開催中です。 三浦恒祺( みうら・つねき)さん(93) 東京都出身。父の転勤で広島に移り、1945年に被爆。終戦とともに両親のふるさとである鶴岡に移住。鶴岡中学校、鶴岡第一高校を卒業後、荘内銀行入行。白甕社や光陽会に所属し数多くの作品を発表。モダンアート展や光陽展等で受賞多数。致道博物館等で個展を開催。1995年に被爆者の会に入会。健康の秘けつは毎日少しずつ飲む日本酒。