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今も息づく
致道館教育と朝暘学校

◆致道館教育致道館
 庄内藩の藩校致道館は文化2年〔1805年〕に創設された。学風は多くの藩が朱子学を藩学とする中で荻生徂徠〔おぎゅうそらい〕の徂徠学を教学とし、実際に即した教育を大切にした。教育は次の方針であった。

<教育方針>
@天性の重視と開発

 教育方針は、子どもの天性に応じて長所の伸長に努め、知識の詰め込みを排して自学自修を重視した。「人は生まれつき得手・不得手があるものだから、ひとりひとりの優れている面を伸ばす」ことを基本とし「善なるもの長ずるとき悪はおのづから失せる」と考えた。

A興味の喚起
 学校生活の緊張を緩和し、子どもが楽しみながら勉学できるように工夫した。学校は少年たちの遊び場でもあるのだから、子どもの無礼などは寛大に取り扱いながら、飽きないように面白く教えることを心がけた。

B自発的学習の意欲の重視
 子どもの理解のしかたをよく考えて、その子に学びのきっかけを与えればあとは自ら進んで学ぶものであるとし、学習意欲がない子どもに対して説いても、なんの益にもならないとした。自ら学び取り、思考し、体得することが真の修学であると考えたのである。

C会業の重視
 会業とは、大学のゼミナールのように自分の疑問や意見を出し合う共同学習法である。現在の中学生以上に義務付けられており、致道館教育では「自学自修」と並んでたいへん重要に修学方法とされた。また教師自身も会業を開き、教材研究の成果を発表しあったことは注目に値する。

朝暘学校
◆朝暘学校
 明治維新の新政府から派遣された鶴岡県令(県知事)三島通庸は、新しい時代をつくるには子どもの教育を充実させることが重要であると考え、明治9年に現在の鶴岡市役所の場所に洋風瓦葺三階建て高さ18メートル、室数42もある当時東北一立派といわれた大規模な校舎を作った。これが「朝暘学校」で、この校名は学校の三階から朝日岳が望めることから、「朝日が昇るように子どもの勉学がぐんぐん向上するように」との願いを込めて三島が命名したと言われる。
 しかし、この校舎が完成からわずか7年の明治16年3月に火事で焼失してしまったのはとても残念なことである。

 本校はこのあと時を経て明治41年(1908年)に「朝暘第一尋常小学校」として現在の馬場町の藩校致道館の場所にその一部を利用して開校された。藩校で使っていた建物をそのまま小学校に利用したわけで、まさに致道館教育の流れが「朝暘学校」を通して朝暘一小に息づいているといえる。

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