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旧町名とその由来2

更新日:2015年1月14日

商人や職人が住んでいた町人町

荒町あらまち

 最上氏の領地になった頃に作られた町人町。城下町の東の入り口にあたり、4月から12月までの9の日(9日・19日・29日)に市が立ち賑わった。

下肴町しもさかのまち

 最上氏時代に今の馬場町の所にあってさかな問屋が多く居住していたが、酒井氏時代に上肴町と下肴町に分けられ現在の本町一丁目に移った。「しもさかなまち」がいつの間にか「しもさかのまち」といわれるようになった。

八間町はちけんまち

 酒井氏時代の町割によってできた町と見られ、八軒町とも書く。大泉橋の袂に酒田船の船着場があり、それに近かったので多くの宿屋があり、賑わっていた。

五日町いつかまち

 最上領になった時にできた町人町で、三日町・七日町・十日町と同様、後の三の丸内にあったが、酒井氏入国後寛永かんえい元年(1624)現在地(本町一丁目)に移された。

三日町みっかまち

 最上氏の領地となった時に、後の三の丸の中に町割された。酒井氏による城下町整備で、他の町人町とともに城外(現在の本町一丁目)に移された。冬季を除く毎月三の日(3日・13日・23日)に市が立ったのでこの名がついた。毎年駒市も立った。尚、現在の銀座通りは、江戸時代には通丁とおりちょうと呼ばれていた。字名の金屋かなや小路は、鋳物師が住んでいたのでこの名がついた。又、セントルの裏のあたりを俗に「しょうけん町」といったが、これは大川周賢という名医が居住したところから「しゅうけん町」と言っていたのがなまったものである。明治13年に三日町に編入された。

十日町とおかまち

 最上氏時代は、後の三の丸内(馬場町)、三日町の裏にあって裏町と呼ばれていたが、酒井氏による町割りで現在地(本町一丁目と二丁目)に移され十日町と改められた。町名は、7月10日が市日だったのでこの市にちなんで命名された。明治13年に十日町と十日町東を合併して十日町となる。

一日市町ひといちまち

 最上氏時代には、後の馬場町の所にあったが、酒井氏による城下町の整備の際、現在の本町二丁目に移された町人町。町名は最上氏時代に市日によってつけられたもの。酒井氏時代には毎年4月から12月までの1と7の日が市日で、月に6日間市がたった。主に呉服反物商が多く住んでいた町であった。鶴岡の町人町を支配した大庄屋宇治家もここに居り、その隣には御使者宿という幕府の役人などを泊める宿もあった。その裏の内川に面した所を御殿河戸こうどという。河戸とは川岸がスロープ状になっている所で、川べりで洗い物をしたり川舟から荷物を陸揚げする場所であった。又、字名で真澄ますみ町というところがあるが江戸時代には御坊ごぼう橋といった。この地名は橋の脇にある浄土真宗の広済寺にちなむものである。明治13年にこれらを合併して一日市町となった。

南町みなみまち

 酒井氏によって新しく町割された町人の町で、町名は城下の南端に位置することから名付けられたと見られる。

七日町なのかまち

 最上氏時代には、今の馬場町の所にあったが、酒井氏の城下町整備により現在の本町二丁目に移された。旅商人や三山道者などが泊まる旅籠屋はたごや町として栄え、後には遊女を置く下旅籠屋が生まれ、明治時代になると貸座敷となった。毎月7の日に市を立てたことから命名された。明治13年七日町・光明寺小路・寺小路が合併して七日町となる。

銀町ぎんまち

 酒井氏時代にできた町で白銀町しろがねまちともいった。金、銀、銅を使って細工する金具師や研師とぎし鞘師さやしが多く住んでいたところからこの名称がある。金具師は主としてつば目貫めぬきなど刀の付属品を細工し、優遇されていた。

檜物町ひものまち

 酒井氏が入国した当初は元曲師町の所にあったが、寛文4年に全焼し、この地に移住させられた。主に屋根をひのき木羽こば板を作る檜物師と、檜の薄板を曲げて桜の皮で綴った曲物を細工する曲物まげもの師が多く住んだことから曲師まげし町といったが、檜物師が多くなったことから檜物町と呼ばれるようになった。又、字名で筬橋おさばしというところははたを織る筬の形をした橋が内川に架けられたので、この名で呼ばれた。

上肴町かみさかのまち

 最上氏の頃、この町は城内、今の馬場町のところにあって、魚(さかな)の商いをする人たちが住んでいた。酒井氏の町割により上肴町(現在の本町三丁目)と下肴町(現在の本町一丁目)の二つに分けられた。越後から秋田に通ずる街道筋にあたり肴問屋が多かった。両肴町には、一軒ずつの御用肴(魚)屋と15軒の魚問屋とんやがあった。なお、上肴町が上の山王社の氏子区域にありながら下の山王社の氏子となっているのは、その昔馬場町の所にあったためである。田元小路は金峰街道の出口に当り、田元(たんぼ)へ出る道なのでこの名がついた。稲荷小路は上肴町裏の稲荷神社へ通じる小路。明治13年にこれらが合併して上肴町となった。「かみさかなまち」が何時しか「かみさかのまち」と呼ばれるようになった。

鍛冶町かじまち

 酒井氏時代に出来た町で、多くの鍛冶職人が住んでいたのでこの名がある。明治13年坂ノ上を編入した。

新町しんまち

最上氏時代に後の三の丸の所にあったが、酒井氏が入国した時、大山街道筋に移された町人町。町名は最上氏によって新しく作られた町であることから命名されたものと思われる。明治13年に安国寺前を編入する。

寿町ことぶきまち

 昭和29年の区画整理により、大字大宝寺だいほうじと大字道形どうがたの一部、及び俗称・亀栄町かめえちょうの付近一帯を合わせ新しく出来た町で、町名は広く公募によって命名された。昭和40年に末広町に編入された。

錦町にしきまち

昭和36年の区画整理により、最上町の一部と大宝寺の一部を合わせ新設された町で、町名は広く公募によって命名された。

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