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鶴岡市の沿革

更新日:2016年8月12日

沿革

 山形県の庄内平野は、源を異にする最上川と赤川の流れによって育まれ、北に秀峰鳥海山、東に出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)、南は朝日連峰の山々に囲まれ、日本海に面した西側には大砂丘が広がる、日本有数の穀倉地帯である。
 当地方に人類が住みついたのは、遠く旧石器時代・縄文時代にさかのぼり、南部の丘陵・山麓地帯には、その当時の狩猟生活の遺跡が点在している。古墳時代になると、平野部の低湿地にも人々が住みつき、豪族の支配を受けながら米づくりの生活を始めるようになる。
 平安時代の末期、この地方には大泉荘という荘園が置かれる。「義経記」に「大泉荘大梵寺を通せ給ふ」という記述があるが、「大梵寺」は後に「大宝寺」と呼ばれるようになり、大泉荘の中心となっていく。
 鎌倉時代のはじめ、武藤氏が大泉荘の地頭として支配し、以来、中世を通じて地方の中心として栄えたが、天文年間(1530年代)、武藤氏は戦乱の中に要害を求めて尾浦城(現在の大山)に居を構える。また、中世期より羽黒山は当地における一大勢力を成していたが、武藤氏は羽黒山の別当という立場を兼ね、黒川能を厚く庇護したといわれている。
 武藤氏の滅亡後、庄内は越後上杉氏の支配するところとなり、天正19年(1591年)上杉氏の武将直江兼続によって大宝寺城が政治の拠点として整備される。その後、関ヶ原の戦の結果、山形城主最上義光が慶長6年(1601年)庄内を治めることとなり、義光は大宝寺城を隠居の城として整備し、慶長8 年には、その名を鶴ヶ岡城と改めた。
 江戸時代に入り、元和8 年(1622 年)最上氏が領地を没収され、代わって譜代大名の酒井忠勝が庄内藩14 万石の領主として入国、鶴岡を居城として城下町を整備し、現在の鶴岡の基礎を築いた。庄内藩には飽海郡と田川郡があり、これを行政上、川北三郷と川南五通に区分するが、現在の鶴岡市は中川通、櫛引通、京田通、山浜通に含まれている。庄内藩は、その後、約250 年にわたり酒井氏より治められることになり、明治維新を迎える。
 明治2 年(1869 年)、酒井氏は版籍を奉還、庄内藩は大泉藩と改称された。同4 年の廃藩置県により大泉県となり、次いで酒田県、鶴岡県を経て、同9 年8 月に山形県、置賜県と合併し、現在の山形県に属することとなり、同11 年(1878年) に郡区町村編成法により田川郡が東西の両郡に分かれ、西田川郡役所は鶴岡に、東田川郡役所は藤島に置かれた。
 明治22 年(1889 年)4 月の町村制の施行により、西田川郡は1 町16 村、東田川郡は26 村に制定されるが、その後、昭和28 年(1953 年)10 月の町村合併法の施行を経て、昭和43 年より庄内南部は1 市7 町1 村の行政区分となる。それから30 年以上が過ぎ、平成の大合併により、鶴岡市、藤島町、羽黒町、櫛引町、朝日村、温海町が合併し、平成17年10 月1 日に新鶴岡市が発足した。
 新市の人口は約13 万3千人で県内では2番目、面積は1,311.53 平方キロメートルで東北では一番広い市となった。平成21 年1 月に総合計画を策定し、「人 くらし 自然 みんないきいき 心やすらぐ文化をつむぐ悠久のまち 鶴岡」をめざす都市像として、市民とともに希望をもって新しいまちづくりに努めているところである。

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