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鶴岡公園(鶴ヶ岡城址)の紹介

更新日:2023年3月8日

鶴ヶ岡城の歴史

 鶴ヶ岡城は、室町時代初期、武藤長盛による築城が始まりといわれており、古くは大宝寺城と呼ばれ、武藤(大宝寺)氏滅亡後、越後上杉氏と主を変えました。1601年には、山形の最上氏による庄内支配の拠点となり、その2年後に鶴ヶ岡城に改称されました。最上氏改易後の1622年、信州松代より酒井忠勝が入部して以降、藩主酒井氏は、1871年の廃藩置県まで12代・約250年に亘ってこの地を治めるとともに、その治世の間、鶴ヶ岡城が酒井氏の居城となりました。

 


出羽国庄内鶴岡城絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)

鶴ヶ岡城の構造と特徴

 忠勝は、城の拡張整備に着手し、新たに三の丸を設けるなど、三代、約50年に亘る改修を行い、その過程で城下町の町割りも整備され、今もなお鶴岡の中心市街地にはこの際の町割りが残っております。
 鶴ヶ岡城は、本丸を中心に同心円状に二の丸と三の丸が取り囲み、各々に土塁と堀を巡らした輪郭式平城です。城の中心となるのは、平屋建て923坪の本丸御殿で、中には御居間・黒書院・白書院・能舞台などがありました。二の丸には、馬場、御兵具土蔵などが、三の丸には、約180軒の侍屋敷、藩校致道館、七ツ蔵、御厩などが設けられました。
 また、本丸北西隅に二層二階の御隅櫓(乾櫓)が、二の丸南東隅には同様に巽櫓が設けられたほか、城門は大手門に角馬出、中の門に桝形門、西御門に外桝形(丸馬出)、外北御門に馬出曲輪(七ツ蔵)といった防御施設が築かれました。城の周囲で石垣積みになっていたのは櫓と門の下部のみで、大部分は土塁が築かれ、その上に鉄砲狭間と矢狭間を交互に穿った笠塀が延々と続き、城の東側では市内を南北に流れる内川が堀の役目を果たし、南側では旧河道を利用し設けた百間堀が、北側では溜池が更に守りを固めておりました。

鶴ヶ岡城絵図
出典 大瀬欽哉「城下町鶴岡」庄内歴史調査会発行 加工編集


鶴ヶ岡城大手門(明治初期 写真 鶴岡市郷土資料館蔵)


鶴ヶ岡城中の門(明治初期 写真 鶴岡市郷土資料館蔵)


鶴ヶ岡城二の丸御角櫓(明治初期 写真 鶴岡市郷土資料館蔵)

鶴ヶ岡城の解体と鶴岡公園の整備

 1868年9月、庄内藩は戊辰戦争で降伏し、鶴ケ岡城を新政府軍に明け渡しました。その後、城郭取り壊し令により1876年に城内の全建築物の破却、大部分の土塁の取り壊し、堀の埋め立てが行われ、新たに一般開放の鶴岡公園となりました。翌年には、住民が酒井家の善政を追慕し、鶴岡公園内の本丸跡に藩祖を祀る荘内神社が住民により建立されました。酒井家当主は、今もなお殿様と慕われ、鶴岡の地に住んでおられます。

重ね図
城絵図と空中写真の重ね図

鶴岡公園二の丸広場の歴史案内サイン

歴史案内サイン_鶴ヶ岡城二の丸跡

歴史案内サイン_金峯石

鶴岡公園二の丸広場脇で出土した金峯石

鶴岡公園二の丸広場脇における山形県の街路整備事業に伴うガス管布設工事の際に金峯石が出土しました。
当該箇所は、鶴ヶ岡城二の丸の外堀に位置することから、二の丸の石垣に使用されたものと推定されます。


出土した金峯石

金峯石出土状況 (令和4年9月2日 撮影)

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