広報つるおか2024.10月号
更新日:2024年9月25日
市長の一筆入魂(80)
8月下旬、出張先である北海道名寄市から戻り、市長室のある3階へ向かった。壁を見て、ふと気付いた。いつも何気なく眺めていた庁議室の隣に飾られていた大きな絵が見当たらない。山本甚作氏の「鶴岡天神祭り」という作品である。
北海道名寄市は本市にとって最も北にある姉妹都市だ。なよろ産業まつりに参加し、もちまき、もちつきチャンピオン大会で「もち米の里なよろ」を実感するとともに、だだちゃ豆や漬物など本市の特産品を販売させていただいた。
滞在中は、市立の北国博物館、ジャンプ台、天文台きたすばるにご案内いただくなど、加藤剛士市長や、石橋総合政策部長、滋野交流推進課長をはじめ、名寄市の皆様に大変お世話になった。
様々な場所の中でも特に印象に残ったのは、本市の藤島地域添川から開拓に入った場所に建立された山形神社だった。今は切り株となって残るハルニレの大木。近年、台風で伐倒せざるを得なくなるまで立っていた大木は、開拓時の原風景とともに、時の移ろいを感じさせた。
明治33年(1900)、遠く山形県東田川郡東栄村字添川の太田豊治氏を団長とする開拓団一行は、現在の山形神社がある場所で旅装を解いた。曙地区という地名は、まるで夜明けの空が明るむように北の大地の開墾が始まったことを示しているのであろう。木を伐採し、北の大地にくわを入れたことを示す地名がその地に残っている。
山形神社に案内してくれた名寄・藤島交流友の会の黒井徹会長は、開拓当初の世代の子孫である。また、現在も曙地区で農業を営む阿部勇さんは、明治の入植者を頼って楪(ゆずりは)から昭和に入村した世代の子孫であった。私は、太田豊治さんたちはどの方角から来たのだろうか、と尋ねた。北の大地に辿り着き、食料基地の礎を築いたその遥かなる道のりに思いを馳せた。
8月31日、ふだんは市役所3階に飾られている天神祭の絵を、鶴岡アートフォーラムで開催された白甕社創立100周年を記念する美術展で鑑賞した。編笠を被った化けものが酒を振る舞う、鶴岡を代表するお祭りを描いた作品である。描いたのは山本甚作氏。大正4年(1915)に生まれ、鶴岡中学校(現致道館高校)在学中から白甕社の会員として作品を発表。現在の鶴岡一中、致道館高校で教諭を勤めた後、中央画壇でも活躍した洋画家だった。
豪雨に猛暑の夏から芸術の秋へ。ハルニレの切り株は現代人を開拓の時代へいざない、100周年記念の美術展に貸し出されたことで生まれた空白は、いつの時代に、誰が、何を描いたものなのか、また、芸術がそこにあるということも決して当たり前ではないということを考えさせてくれた。
皆川 治
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